外国人を呼び捨てにすることについてのとりとめのない話


こんにちは。もじゃです。

この記事は、何が正解とか、自分の中で整理のついてないモヤモヤ話です。
文章としてもいつも以上にとっ散らかってしまってます。
それでもいい人はお読みください。

僕は学生のころ、アフリカンに出会いました。
そして、たくさんのアフリカ人と出会いました。
その人が太鼓の先生なら、太鼓習ったりも。

で、〇〇先生と呼ぶとき以外は全員呼び捨てにしてきました。
というか、〇〇先生と呼ぶときは大抵本人がそばにいるとき。
本人がいなければ呼び捨てです。

学校の外国人の先生とかだったら本人がいなくても先生と呼びますが・・・それは例外かなあ

例えば、
グラコロ・フィレオという氏名なら「フィレオ」
パスタ・マカロニという氏名なら「マカロニ」
日本人同士の会話でその人のことを話題に出すとき、「フィレオは優しいよね」「マカロニがあんなことしててさ」みたいな言い方になります。

「フィレオさん」とか「マカロニさん」とはそうそう呼ばないです。

それが普通だと思っていました。

ただ・・・
ここ数年、活動範囲が広がってみると、ときたま「フィレオさんはスゴイよね」「マカロニさんの叩き方は~」
みたいに、さん付けする人も存在することに気づきました。

そんな人(日本人、さん付け派のAさん)とその外国人(グラコロ・フィレオ)についての話をするとき、
僕「フィレオに太鼓ちょっと習ってました」
Aさん「フィレオさんはスゴイよね」
となるわけで

「僕も”フィレオさん”って呼ばなくていいのか?」という心の声がすごい。

これはアフリカ人だからではなく、外国人だと大体そうです。

これをきっかけに、外国人を呼び捨てにするときどんな心理が働いているのか考えてみた結果・・・
・親しみ
・共有感(“あの”彼のことだよねーみたいな)
そして、たぶん
・気がでっかくなった感じ

↑僕の場合は、ですよ。

そこに、親しみはあっても、あまり敬意は入っていないのかなあ、と。
まだ何かありそうな気がするけど・・・

———————————-

目上、目下というのがありますが、目上であれば日本人同士が日本人の第三者(例:目上のダイフクさん)に対して「ダイフクに太鼓習いました」とは言わない
「ダイフクさんに習いました」と言うと思います。

外国人だと、目上でも
「フィレオに習いました」が自分の中で全然OKになる感じ。

そもそも、外国人は目上、目下という縛りから開放された結果、”さん付けしない”を選択されることが多いということかな。

そもそも、外国人からすればさん付け文化は日本人の問題であって、どちらで呼ばれようが関係ないと思ってるかもしれない。
むしろ親しみを覚えてもらえる呼び捨て歓迎かもしれない。

そもそも、さん付けしなくたって敬意をこめてることもあるよなあ。
クリストファー・ロビンがくまのプーさんのことを事あるごとに「このおバカさん」って言うのを見ても、10人中10人は「愛されてるねー」という感想を覚えるでしょう。
「ひどい・・・」と感じる人はいないです(いや、いるか?)
というか”おバカさん”はさん付けか。

混乱してきたのでこの辺で。

以上、もじゃでした。